なんのために勉強するのか。僕なりのアンサー

jironist

ど田舎の高校2年生です。遅れがちながらも大学受験に向けて勉強しています。いろいろ考えていること、記録しておきたい僕の持論です。Z会・東進衛星予備校・東進東大特進

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なんのために勉強するのか」という問いは先生に聞いても納得できる答えは返ってこないでしょう。あなたなら「勉強はなんのためにするのか」と聞かれてどう答えますか?日々勉強に追われる高校生や中学生にとって、勉強の目的が見つからないのはつらいことです。よくやり玉に挙げられるのは古文や漢文ですが、学ぶ理由が「教養だから」は確かに納得がいきません。人間はAIに勝てないとかいいながら複雑な計算をやる。科目選択で選んだ人だけが世界史をやる。ここでは、ぼくなりに発見した「勉強する理由」を主張します。

「勉強する」と「学ぶ」は違う

 これは高校に入って切に感じたことであります。「学ぶ」ことは、自分を成長させる可能性があるすべてのことを指すと思っています。イベントや部活動への参加、旅行に行く、今日勉強をサボって一日過ぎたことでさえ学びだと言えるはずです。対して「勉強する」ことは、学校の授業での内容、つまり教科書に書いてあることを身につけることです。誰でもほぼ平等に同じことを教えられ、同じことを身につけようとします。将来に役立つとは到底思えない内容もあります。でも、受験に使うため、卒業するためには勉強するしかないという状態です。

しかしこの状態ではほとんどの人が勉強する意味を理解できず、「押し付けられている」ように感じています。

勉強させる意味

 ぼくは、勉強をなぜするのかよりもむしろ「させるのか」というところに答えがあると思っています。はっきり言って、漢文を完全に理解している人が、漢文で得た知識や教養を用いることで、一般の仕事上で漢文を読めない人より優位に立てる機会は少ないのではないかと思います。それでも漢文など勉強の能力が大人の世界でもある程度重視されるのは、勉強ができる人は「努力できる人」だと考えられるからです。もちろん全ての人がそうというわけではなく、環境や遺伝の要素も大きいため偏差値だけで判断することは当然不可能なのですが、勉強を頑張った人ほど大人になってからも努力を続けられる可能性が高いはずです。決して学歴重視を礼賛したいわけではありませんが。

 だからこそ、ぼくたちはどこまで勉強についてこられるかというミッションを課されていて、そのミッションに応えられた人ほど将来の可能性を広げられるということだと思っています。どこまで努力できるかを測るために勉強させていると思います。塾や天賦の才はそれを大きく有利にさせますが、結局本人の努力次第で変わる部分が大きくあります。様々な誘惑に囲まれながらもコンスタントに努力を続けるのは並大抵のことではありません。誰もが公式や古語をあらかじめインストールして生まれたきたわけでもないのだから、勉強って狭い分野でのわりと平等な競争だと思います。

つまり、漢文がどう将来に必要かはあまり分からないが、漢文を学ぶという行為に意味がある

というのが結論です。この調子で自分をだましだましやっていきます。

僕の持論です。

そこに勉強があるからだ。

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